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【高知】日本のチベット?<後編>坂本龍馬脱藩の道は茶堂点々

坂本龍馬脱藩の道

坂本龍馬は1862年3月24日に土佐藩(高知)を出奔し伊予の国(愛媛)に向けて、佐川町、葉山村、東津野村を通過、翌25日に梼原(ゆすはら)に到着しました。

この夜は梼原の勤王の志士の家に泊まり、26日未明、彼らの道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて県境・韮ヶ峠を越えて脱藩を果たしました。

梼原では、ここから維新の門が開かれたとされています。

日本100名城高知城


坂本龍馬脱藩の道 絶景布施坂

坂本龍馬が駆けぬけた旧東津野村で当時の面影を感じさせるのが布施坂の峠道と言われています。

つづら折りの道が続く津野町桂地区(布施ヶ坂)は山の急斜面に茶畑が広がり、道路脇に紫陽花が咲いていました。脱藩道随一の眺望と教えてもらいました。

坂本龍馬脱藩の道 布施ヶ坂

坂本龍馬脱藩の道 布施ヶ坂

江戸時代、『土佐国土産名物』には、碁石茶や青茶、そして津野山の六蔵茶が記述されています。現在も美しい茶畑が急斜面に広がるその風景は、国の重要文化的景観として選定されています。

茶堂巡り

①旧東津野村 高野の茶堂
茶堂とは、小さな茅葺小屋で、正面左右に戸も壁もなく、堂内にはお大師様やお釈迦様などが祀られている、身近な信仰の場、交流の場としての役割を果たすと同時に道行く旅人をもてなす場でもありました。

四万十川源流の津野町も稀少な存在となってしまった茶堂が現存しています。
萩の地蔵が安置されている高野の茶堂です。

高野の茶堂

②梼原町 化粧坂の茶堂
「化粧坂の茶堂」説明板によると、津野山郷村々では1604~11年に茶堂を建てて弘法大師、考山霊、三界万霊を祭り、厄払招福の祭りをする申し合わせがなされて以来、堂内に木像石像等の諸仏が安置され津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を村民が輪番で行うとあります。

その数は、明治には53棟、昭和には18棟、現在梼原町に残っているのは13棟です。

化粧坂の茶堂

③梼原町 川西路の茶堂

川西路の茶堂

④梼原町 茶や谷の茶堂
梼原町に13棟残る茶堂のなかでも茶や谷の茶堂は長宗我部時代の地検帳にも載せられている大変古い茶堂です。

堂内には茶屋谷部落お茶当番の看板が貼られ、小さな木製のちゃぶ台の上にはお茶が入ったヤカンと茶碗が置かれていました。
龍馬一行は、茶屋谷に住む若者の案内でこの茶堂から松ヶ峠番所を通過、国境の韮ヶ峠に達しました。

茶や谷の茶堂

⑤梼原町 中の川の茶堂

中の川の茶堂

⑥梼原町 六丁の茶堂

六丁の茶堂

最初は皆同じに見えた茶堂もそれぞれ違うことに気づきます。
六丁の茶堂は石仏が安置されている棚上の柱に朱色の花が彫られて目に鮮やかでした。

日本のチベット?

「ゆすはらは日本のチベットだよ」という言葉に導かれた梼原町めぐり。

ダライ・ラマ14世の半生を描いた映画『クンドゥン』の終盤、インドへの亡命を決意したダライ・ラマ一行がヒマラヤ山脈を越えて行く場面が維新を夢見て梼原から脱藩した志士たちとオーバーラップしました。発言者に再会する機会があったら、答え合わせしてみたいと思います。

梼原町って、本当に広いのです。残りの茶堂がなかなか見つからず、13棟のうち5棟でギブアップ!
道後温泉で楽しみにしていたパフェのお店が閉まってしまう。

途中トイレ休憩で寄ったサービスエリアで買った塩けんぴで空腹をなだめながら、愛媛にダッシュで戻りました。

甘いと塩っぱいが同居して食べる手がとまらなくなる塩けんぴ

閉店一時間前滑りこんだ山田屋まんじゅうの日本茶専門カフェ茶楽。

山田屋は1867年創業以来一子相伝の薄皮饅頭をただ一筋に作り続けている老舗菓舗で、道後温泉店にはカフェも併設されています。
探索後のご褒美スイーツは格別でした^^

山田屋まんじゅうの日本茶専門カフェ茶楽の茶楽パフェ



このしおりのライター

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