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2022-11-12

【兵庫】近代化日本の鉱山開発の原点、生野銀山と神子畑選鉱場

近代化の模範鉱山第一号として開発された生野、神子山、明延、中瀬の4鉱山。
これら鉱山群をつなぐ「鉱石の道」と、物資や鉱石を輸送するルートとして整備された生野銀山から姫路市飾麻港までの「銀の馬車道」は、「資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍」というストーリーで日本遺産に認定されています。

日本の近代化を牽引してきた産業遺産群のうち、生野銀山と神子畑選鉱場を見学してきましたのでレポートしたいと思います。



生野銀山

日本初の官営鉱山として有名ですが、その歴史は古く、大同2(807)年に開坑したと伝えられ、昭和48(1973)年に閉山するまで、1200年もの歴史があります。

鉱山上部には江戸時代の坑口が今も残っています。

歴代武将、信長、秀吉、家康の直轄を経て、第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出。佐渡金山、石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきました。

坑内では狸掘(たぬきぼり)と呼ばれる手掘り跡を見ることができます。
人一人通るのもやっとの狭い通路を掘り進み、発掘していたかと思うと、気が遠くなる思いです。

明治以降は日本初の最新技術が数多く導入され、掘り進んだ坑道の総延長は350km以上にも及びます。

機械化されたとはいえ、地下での作業は安易に想像もできないほど過酷だったのではないでしょうか。
日本経済を支えた資源大国日本を世界に知らしめた日本有数の大鉱山です。


トロッコ軌道跡

鉱山町として栄えた生野の町には、鉱山本部から生野旧駅間を結んでいたトロッコ軌道跡が残されています。
市川沿いのトロッコ軌道跡と瓦屋根の住宅が並ぶ街並みは大変趣があり、絵になる風景です。



羽渕鋳鉄橋(はぶちちゅうてつきょう)

明治20年に完成した「羽渕のめがね橋」の愛称のある鋳鉄製二連アーチ橋。
神子畑鉱山の鉱石運搬用の馬車道に架橋されたもので、平成2年、台風後の田路川全面改修時に国道312号沿いに移設保存されています。
兵庫県重要有形文化財、経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。



神子畑鋳鉄橋(みこばたちゅうてつきょう)

明治18年に架橋された単径間アーチ橋で、鉄製の橋としては日本で三番目、全てが鋳鉄製の橋としては日本最古のもの。
国の重要文化財、そしてこちらも羽渕鋳鉄橋同様、経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。



神子畑選鉱場(みこばたせんこうしょ)

かつて隣町にあった明延鉱山の選鉱施設として建設された選鉱場。
山の斜面を利用した「比重選鉱技術」は国際的にも高い評価があり海外からも視察団が訪れるほどでした。
現在は鉄筋コンクリートの基礎構造物だけが残っています。

斜面に敷かれたレールは選鉱場の上下を結んでいたインクラインの跡。

遊園地の遊具のような可愛らしい車両は、明延から神子畑までをつないでいた「明神電車」です。昭和4年、鉱石輸送のために開通しましたが、昭和20年、従業員とその家族の交通の便をはかるため客車が連結されました。
開通当時の運賃は50銭、その後昭和27年には1円に改訂、昭和62年の明延鉱山閉山による廃止まで運賃は1円のまま据え置き、その事が話題となり「1円電車」の愛称で有名になりました。

屋根のある状態、稼働当時の施設全体写真が、資料館となっている「外国人技師ムーセの住居宿舎」に展示されています。

写真におさまりきらないとても大きな円形の施設は「シックナー」と呼ばれるもの。

濃縮脱水をする装置のようです。自分の言葉で説明するにはやや難しいため、詳しくは現地にあった説明板をご参照ください。

廃墟化しているものの、現在も残る選鉱場跡の迫力から、「東洋一」と謳われたのも納得です。

採掘手法、選鉱手順など、専門用語が多く、なかなかすんなり頭には入ってきませんでしたが、展示されている図解や説明板、映像が理解の助けになりました。
坑道の奥行、施設の大きさから、いかに大規模な鉱山であったか、産業により人が集まり町が形成された当時は、いかに賑わいがあったか、想像が掻き立てられます。

産業の発展と衰退の過程で、尽力した人々の存在が今の日本を形成したかと思うと、社会の一員として自分は何が出来るのだろう、何をしているのだろう、と考えずにはいられません。

とてつもなく大きなビジネスが存在した時代に思いを馳せながら「鉱石の道」「銀の馬車道」を歩いてみてはいかがでしょうか。



このしおりのライター

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