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日本三大怨霊の一人、平将門(たいらのまさかど)。怨霊、呪い、祟(たた)りを起こす場所として知られているのが、「平将門の首塚」(東京都千代田区大手町1丁目2番)。日本(東京)の心霊スポットとしても名高い観光名所(旧跡)です。

神田明神の創建場所と重なる首塚は、お参りすれば勝ち運が得られるパワースポットとしても人気。そこで、NHK大河ドラマでも描かれた「平将門の乱」をはじめ、都市伝説、子孫、家系図、怨霊や呪いにまつわる事故や怨念、平清盛や京都の神社との意外な関係などもご紹介。

首塚は、JR「東京駅」や地下鉄「大手町駅」からのアクセスが一番近く、東京観光の合間にお参りするのもおすすめです。

※新型コロナウイルスの感染が拡大している現在は不要不急の外出を控え、事態が終息してからお出かけを楽しみましょう。





日本三大怨霊!平将門、菅原道真、崇徳天皇

日本三大怨霊とは、「平将門(たいらのまさかど)」「菅原道真(すがわらのみちざね)」「崇徳天皇(すとくてんのう)」のこと。

三人とも非業の死を遂げ、死後、天変地異や疫病が流行。朝廷に災いをもたらした怨霊と恐れられました。しかし、手厚く祀りあげることで強力な守護神になると考えられ、「祟り神(たたりがみ)」として信仰されるようになりました。

※写真は、菅原道真を祀る北野天満宮(京都市上京区)

※日本三大怨霊についてはこちら
>>日本屈指の心霊&パワースポット!「日本三大怨霊」にまつわる場所とご利益をご紹介





平将門とは

平将門とは、平安時代中期の関東の武士。10世紀に活躍し、京の都の支配から関東を独立(平将門の乱)させた猛将です。「新皇」を名乗り、日本から独立した別の国家を関東につくりあげましたが、940年2月に朝廷の命令を受けた武士たちに攻められ、将門は戦死。京都でさらし首にされました。





「平将門の首塚」の伝説

将門の無念の想いは強く、首は目をカッと見開き、カラカラと笑った後、光りながら胴体を求め、故郷の東国へ飛び去ったと伝えられています。

将門の首が落ちた場所の一つが、武蔵国芝崎村(東京都千代田区大手町)。この地は、神田明神の創建場所とも重なり、もともと柴崎古墳(墓)があった場所とされています。





「平将門の首塚」の場所、行き方は?

※写真は、平将門の首塚

首塚へは、地下鉄でのアクセスが便利です。
地下鉄「大手町駅」のC5出口から地上に出て、皇居と逆方面(東方面)へ約40メートル歩いた場所に、首塚があります。
三井物産本社ビルの一部が不自然に奥へ食い込み、鬱蒼と木が茂る旧跡があります。ここが、平将門の首塚。

大手町駅は、「東京メトロ(丸ノ内線、東西線、千代田線、半蔵門線)」と、「都営地下鉄(三田線)」が乗り入れています。

JR東京駅は、大手町駅と地下通路でつながっているため、東京駅からのアクセスも可能(徒歩約6分)。

車でアクセスする場合は、国道1号線(日比谷通り)の大手町までアクセス。三井物産ビルの交差点を曲がります。首塚の真正面には、大手町パークビルディングの駐車場があるほか、大手町ビル駐車場や大手町タワー駐車場も点在。





「平将門の首塚」のご利益

※写真は、平将門の首塚

平将門は、貴族中心の不平等な社会に失望。飢え死にする農民を救うため、関東に独立国を築こうと、絶対的な権力に立ち向かった英雄です。強力な守護神であり、そのパワーは絶大なもの。

怨霊や呪い、心霊スポット、祟りを起こす場所と恐れられながらも、多くの人々が「平将門の首塚」や「神田明神」などにお参りしています。

「平将門の首塚」は、勇気と決断力を与えてくれるパワースポットとして人気があり、運気や運勢アップ。特に勝負運が向上。必勝祈願、仕事運、学業成就、縁結び&恋愛成就、金運アップ、厄除けなど、あらゆる勝負ごとにご利益がある神様として信仰されています。

徳川家康は、関ヶ原の戦いを前に、将門をお祀りする神田明神に戦勝祈願。見事に勝利し、「江戸総鎮守」として神田明神を称えています。

また、首塚には、カエルの置物が多く見られます。これは、京都で晒された将門の首が胴体を求めて戻ってきたことから、人やお金が「無事にかえる」というご利益を込めて奉納されているもの。

※写真は、国王神社(茨城県坂東市)

将門は、「御首(みくび)神社(岐阜県大垣市)」、「筑土(つくど)神社(東京都千代田区)」「神田明神(東京都千代田区)」「国王神社(茨城県坂東市)」などにも祀られ、それぞれパワースポットとして多くの人々がお参りしています。





「平将門の首塚」を霊視

※写真は、平将門の首塚

余談ですが、東京で暮らしていたころ、私はいつも大晦日の深夜に首塚にお参りしていました。不気味に静まり返る暗闇のオフィス街で、真っ赤なスポーツカーに乗った美女が首塚の前に車を止めて参拝するなど、有名な芸能人がお忍びで訪れているのも印象に残りました。

霊感の強い女性の話では、呪いや怨霊といった暗い心霊スポットという気配はなく、気のエネルギーが噴出する皇居(富士山から流れる龍脈とつながる龍穴)に近く、清浄な空気に満ちているとのこと。

しかし、もともと古墳の地であり、江戸時代には屋敷があり、これまでに惨殺事件や事故が数多くあった場所。将門以外の怨霊や悪霊が何層にも堆積していて、重苦しい空気が塚の地中深くに渦巻いている、と霊視。怨霊や災いは、将門ではなく、地中深くに眠る悪霊によるものという。





「平将門の首塚」の呪い、怨霊、事故まとめ

※写真は、将門の胴体が埋められた「胴塚」(茨城県坂東市の延命院)

■平安時代中期(940年)…京の都に晒された将門の首は、目をカッと見開き、カラカラと笑った後、光りながら故郷の東国へ飛び去り、武蔵国芝崎村(東京都千代田区大手町)に落ちた。

大地は揺れ、三日三晩雷が鳴り続け、芝崎村の人々は恐れおののき、近くの池で首を洗い、首塚を築いて手厚く供養。天変地異が鎮まったが、首塚は怪光を放っていた。

■鎌倉時代末期、徳治2年(1307年)…東国で凶作が続き、飢饉となり、疫病が蔓延。首塚は荒廃しており、人々は「無念の死を遂げた将門の祟りだ」と恐れた。

この噂を聞いた僧侶(真教上人)が首塚を修復し、将門に「蓮阿弥陀仏」の法号を授け、将門の霊を手厚く供養すると、疫病が治まった。

将門の首塚を修復した時に、近くにあった神社(安房神社)も修理。「神田明神」という名前に改め、平将門の霊を祀った。これが、神田明神の始まり。

■江戸時代初期、元和2年(1616年)…徳川家康が江戸幕府を開き、江戸城を拡張するため、神田明神は江戸城の表鬼門守護にあたる現在の地に移される。

※将門を祀る、神田明神の「三ノ宮」は、勝ち運や厄除けにご利益があり、仕事運や金運アップ、縁結び&恋愛成就のパワースポットとして人気。


※写真は、将門の胴塚を見守るお地蔵さま(茨城県坂東市の延命院)

■大正12年(1923年)…関東大震災が発生。大手町一帯はがれきの山に。日本政府は首塚を取り壊し、大蔵省を建設。しかし、大蔵省で病人が続出し、大蔵大臣をはじめ幹部14人が死亡。

■昭和15年(1940年)…雷による火災で大蔵省の庁舎が全焼。全焼21棟、死亡者2人、重軽傷者100人以上の大惨事に。将門の没年は940年。将門の死から、ちょうど1000年後の出来事だった。

「首塚をおろそかにしているから」という声が再びあがり、大蔵省は古跡保存碑(現在の首塚にある板石塔婆)を建立。
遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年」の文字が板石塔婆に刻み込まれることに。当時の大蔵大臣は、平将門の心霊を鎮めるため、将門鎮魂祭を始める。

■昭和20年(1945年)…終戦。日本に進駐してきたアメリカ軍が、首塚周辺を駐車場にしようと計画し、工事を開始。作業中のブルドーザーが突然ひっくり返り、死者を出す。

■高度成長時代…日本政府が首塚周辺を金融機関に売却。日本長期信用銀行が建てられたが、首塚に面した部屋の行員が次々と病気にかかるという異常事態が発生。

■現代…高さ日本一(約390メートル)の高層ビルを含む、2030年までの丸の内周辺再開発でも、将門の首塚は取り壊されることなく、手厚く保護されている。





平将門の怨霊と都市伝説

※写真は、兜神社(東京都中央区日本橋兜町)

【都市伝説その1 将門と北斗七星】
東京都内にある、7つの平将門ゆかりの地(鳥越神社、兜神社、平将門の首塚、神田明神、筑土八幡神社、水稲荷神社、鎧神社)を結ぶと、「北斗七星」の形になる。

徳川家康は、平将門の心霊パワーを江戸を守護する力に利用した。実は将門は、北斗七星を神格化した仏教の守護神「妙見菩薩(みょうけんぼさつ)」を信仰していた。将門に関係する場所を「北斗七星」になるように結界を作り、将門の心霊パワーを使って、悪霊を封じ込めようとしたのだ。


【都市伝説その2 山手線に隠された真実】
徳川幕府を倒した明治政府。日本の新しい政府は、家康が過去につくった霊力を封じ込めるため、都内の「北斗七星」の結界を鉄で引き裂こうと計画。その鉄というのが、「山手線」。

さらに、明治新政府は将門の霊力を封鎖するため、青山霊園、谷中霊園、雑司ヶ谷霊園を新設し、それらと築地本願寺を結び、靖国神社を中心にした四角形の結界を作った。
明治新政府は、将門の霊力で東京を守護するのではなく、新政府のために命をささげた人々の霊力で帝都を守ろうと考えたのだ。


【都市伝説その3 結界を崩した呪い】
山手線の鉄は、兜神社と鎧神社の間に敷設された。将門の「兜(首)」と「鎧(胴体)」を切断。しかし、山手線が完成する直前に、関東大震災が東京を襲う。

関東大震災で築地本願寺が損壊。明治新政府がつくりあげた結界が崩れる。築地本願寺の境内にある多数の墓地が、和田堀廟所(元陸軍弾薬庫)に移転してしまったのだ。

のちに、東京は再度、壊滅的な打撃を受ける。それは1945年(昭和20年)3月の東京大空襲。アメリカ軍の大型爆撃機、B29の大編隊は、結界が破れた築地本願寺の方面から東京に飛来してきた。新政府が将門の結界を崩し、将門の怨霊パワーを目覚めさせたのではないか、と噂されている。


【都市伝説その4 東京スカイツリーが結界分断】
築地本願寺は再建され、山手線も復興。2つの新たな霊力によって、将門の怨霊パワーを封じ込めることができた。

しかし、2012年に東京の新たなシンボル「東京スカイツリー」が誕生。スカイツリーは、皇居から見て北東(鬼門)に位置。皇居の裏鬼門にあるのは「東京タワー」。東京スカイツリーと東京タワーを結ぶ線が、将門の怨霊パワーを封じ込める結界を再び分断。東京は近く巨大な災害に見舞われると噂されている。巨大地震か、富士山大噴火、核ミサイル攻撃なのか…。





平将門の家系図

※写真は、平将門が建立した「奈良の大仏」(千葉県市原市)

平将門は、平家の出身。桓武天皇の子孫にあたり、天皇家の血を継いでいます。
将門の父、良持(よしもち)は、現在の千葉県佐倉市を本拠地にしていました。
将門の母は、下総国相馬(茨城県取手市寺田周辺)の豪族、県犬養春枝の娘とされています。





平将門の乱とは

※写真は、平将門が建立した「奈良の大仏」(千葉県市原市)

939年、隣国の常陸(ひたち)の豪族が、坂東(茨城県坂東市)に本拠地を置く将門に助けを求め、逃げ込んできました。男の名は藤原玄明(はるあき)。

玄明は、飢えに苦しむ農民を救うため、朝廷の倉庫を襲い、農民に米を分け与えました。朝廷に反逆した罪人です。

玄明をかくまった将門は、やがて朝廷と対立することに。将門は次々と、朝廷の役所を襲い、関東の全域を支配。将門は、自らが関東の王(新皇)となり、京の都からの独立を宣言しました。これが「平将門の乱」です。





平将門と、平清盛の関係は?

平将門は、桓武天皇の子孫「桓武平氏」のひとりであり、「平清盛」と同じ家系です。

平将門(903年?~940年)が活躍したのは平安時代中期。平清盛(1118年~1181年)が活躍したのは平安時代末期。

平将門は940年2月、平貞盛と藤原秀郷によって討伐(承平天慶の乱)されますが、平貞盛の子孫が、平家の繁栄を築いた平清盛です。





平将門の子孫は? 東郷平八郎、皇室も

将門の死後、将門の子孫は各地で生き残り、現在の皇室にまで将門の血が受け継がれていると言われています。

平将門の娘(次女)の「春姫」は、下総国相馬郡岩井郷(千葉県柏市)に隠れ住み、名を「如春尼(にょしゅんに)」と名を改め、一族の菩提を弔いました。

春姫の子孫は、武蔵国秩父郡に基盤を持つ、秩父平氏として栄え、主な一族に「高山氏」「渋谷氏」などがあります。

高山氏は、高山党として独立し、キリシタン大名の高山右近を輩出した一族。
渋谷氏を祖とする東郷氏は、明治37年(1904年)の日露戦争で、戦艦「三笠」に乗り込み、連合艦隊の司令長官として、ロシア軍のバルチック艦隊を撃滅した、あの東郷平八郎を生み出しました。

最も有名なのが、大正天皇の母(柳原愛子)が、平将門の次女(春姫)の子孫という話。柳原愛子(やなぎわらなるこ)は、昭和天皇の祖母にあたる人物。平将門の血筋は、女系を通じて現代の皇室まで受け継がれているとされています。


※写真は、平将門の三女(如蔵尼)が刻んだ「寄木造 平将門木像」

一方、将門の三女は将門が敗れた後、奥州へ逃れます。重い病を患いましたが、菩薩の助けによって蘇生し、「如蔵尼(にょぞうに)」と名を改めました。坂東の地に戻り、国王神社(坂東市)の前身となる庵を結びました。

国王神社では、如蔵尼が刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)をご神体としています。





将門と京都の神社との関係

※写真は、貴船神社の奥宮(京都市左京区)

京都には、「京都 神田明神」(京都市下京区)があり、将門の首がさらされた地に残る祠とされています。

また、京都の貴船神社(京都市左京区)も、将門の子孫とのゆかりが噂される聖地。貴船神社は、良縁&恋愛成就のパワースポットで人気の場所ですが、「貴船神社は丑の刻参り(うしのこくまいり)発祥の地」と恐れられています。

「丑の刻参り」というのは、丑の刻(午前1時~午前3時ごろ)に、神社のご神木に憎い相手に見立てた、わら人形をくぎで打ち込むという、呪いの儀式。

貴船神社(奥宮)で最初に、丑の刻参りを行った伝説の妖術使いが「滝夜叉姫(たきやしゃひめ)」で、本名は「五月姫」とされています。将門の三女、「如蔵尼」がモデルではないかという伝承があります。

※現在、丑の刻参りは禁止(不法侵入罪、器物破損罪、脅迫罪などに相当)





平将門の乱は、その後の時代をどう動かしたのか?

天皇を頂点とする貴族社会。多くの農民が飢え死にしても、贅沢この上ない暮らしを続けていました。貴族中心の不平等な政治に反旗をひるがえし、飢えて苦しむ農民のために立ち上がった、日本のサムライが、平将門です。

軍馬の生産し、騎兵隊を編成。馬に乗って敵を切りつける新しい武器(刃身が反った刀)を開発するなど、将門は先見性にも優れていました。

将門は940年に戦死します。朝廷に対抗したのが武士。それを鎮圧したのも武士。「平将門の乱」は、それまでの貴族支配から、武士の時代へと歴史の流れを変えるきっかけをつくりました。





おわりに NHK大河ドラマと平将門

平将門は、NHKの大河ドラマ『風と雲と虹と』や、荒俣宏の小説『帝都物語』でも描かれ、アニメや映画にも登場しています。

将門に怨霊や呪い、心霊スポットとしてのイメージが強いのは、朝廷(天皇)に反逆した罪人の末路としてさらし首にされた歴史があるからでしょう。

明治以前には、関東地方の多くの神社で祀られた将門でしたが、明治時代になると次第に軍国主義が強くなり、天皇中心の国家を復活させようという動きが見られるようになります。将門は「朝敵」「逆賊」として、神田明神の主祭神から外されました。

戦後、将門を祭神に復帰させる嘆願が起こり、昭和59年(1984年)に神田明神の主祭神として再び祀られるようになりました。きっかけとなったのは、昭和51年(1976年)に放送されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の影響が大きい。

平将門を主人公としたドラマは、民衆のための理想の国をつくろうとする歴史ロマン。将門は、「反逆者」「朝敵」「怨霊」「祟り」「呪い」と畏れられる一方、虐げられていた人々のために立ち上がった英雄とされ、怨霊になるような人物ではないという考えもあります。

※写真は、平将門の終焉の地、北山稲荷大明神(茨城県坂東市)

平将門を演じた、俳優の加藤剛は、こんなふうに語っています。

「将門はたしかに時の権勢に弓引いたわけですが、彼の中に用意周到に計画を立てて国家転覆をはかろうという気持ちはなかった。自分の生き方に忠実であろうとすると、それが革命というふうな形にならざるを得ない。命をかける値打ちのある夢なら、あえて夢を見よう。そういう生き方が大変に魅力的だし、今でも好きなんです」

出典:「風と雲と虹と」に主演した加藤剛が語る“極悪人”平将門の魅力とは? | AERAdot.

閉塞された時代を突破すべく、全力で駆け抜け、桜のように潔く散った平将門。
「幸せのストーリー」が見つかりづらい現代。生きづらい時代をどう生きるのか。将門の生き方は、会社や組織に縛られて生きている私たちへの問いかけであり、だからこそ将門の数奇な人生に惹かれるのでしょう。
東国の王、将門ゆかりの史跡を訪れ、勇気の源泉と強力なパワーに触れてはいかがでしょうか?





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